源頼政・山本義経と丹波篠村庄・五箇荘庄・山本庄

中世史

京都から丹波へ、大枝山(現在の老の阪)を越えて口丹波(くちたんば)へ入り、丹波盆地へ入ったところが、篠村庄・五箇荘庄になる。
平安期には藤原氏の国司が支配したようで、今昔物語にも篠村庄の不思議な茸の話が出ている。

その後平安後期に入ってから、源氏代々の所領となったようである。平治合戦の前には、かの有名な源三位頼政(げんさんみよりまさ)が、夜な夜な御所の上空に現れる化け物を退治したことで、五箇荘庄を与えられ、後年出家後にこの五箇荘庄に居住していた。
平治合戦において、頼政は宇治で戦死したので、平家が没収して支配したようである。

木曽義仲が都を占拠した頃にまた源氏の所領として戻ったようで、義仲没落後は源義経の所領となっていた。

義仲が京都へ侵攻したときに、畿内の源氏も挙って蜂起し、当時口丹波を領した、陸奥判官義康(足利氏)の子、矢田判官代義清も丹波より出兵している。
矢田は八田とも書くが、現在の亀岡市東部付近のことである。この辺りに館があったのであろう。

義仲の京都占拠後、源三位入道(頼政)の子は、大内裏守護についている。
この時に、近江源氏の山本兵衛尉義経という武将がおり、寿永3年7月、後白河法皇が山門(比叡山延暦寺のこと)より還御されるとき、義仲が5万騎を率いて守護したとき、この山本義経は白旗をさいて先陣に供奉している。

この山本義経は「冠者」と書かれていることから、後の九郎判官源義経と同一人物ではないかと、学者は喧々諤々論争をしたことがあったが、今では別人ということで、一応収まっている。
山本義経はこの後京都の朱雀より西、丹波に至るまでの警備を担当している。

源平合戦が終了した後に、(九郎カ)義経はこの所領を源頼政の後胤である峰堂の延朗上人に五箇荘庄を寄進した。この延朗上人は中々の人物であったようで、義経よりの寄進を固辞したが、源氏代々の所領であるからとのことで、固辞することが出来ず、寄進を受けている。

上人は念仏をを唱えるこで年貢を免除し、百姓を奨励したので、農民だけでなく、公家・武士からも尊敬を集めた。

ここで少し疑問が湧くのであるが、この山本兵衛尉義経と九郎義経は本当に別人なのであろうか。九郎義経については、鎌倉へ行ってからの活躍は諸書に出ているので問題ないのであるが、兵衛尉義経については、これ以降史料に出てこないのである。「冠者」とは若者を意味するので、九郎と年齢が同じようなものではなかったろうか。

昭和になってからであるが、丹波の郷土史家「松井拳堂」(まついけんどう)は、丹波に山本兵衛尉義経の後胤がいた(または、いる)と丹波史年表に載せている。
桑田郡山本村(保津川の南側、北は保津)は山本義経の本拠となった場所ではなかろうかと、ついつい思いたくなる。山本村は篠村の隣である。

この口丹波の保津川(大井川・大堰川)沿いに発展した農地に盤踞した在地武士は、平安期に源三位頼政より弓を奨励され、「弓射連中」を組織した人たちの後胤であった。

この中に頼政の郎党だった渡辺綱の子孫がおられ、江戸後期には在地を離れられ京都におられたが、中世史料を伝承されているのが、誠に興味深い。

この地は後年足利高氏(後の尊氏)が鎌倉幕府に反旗を翻した場所である。
なぜ、篠村なのか、ここに平安末期より足利氏代々の所領があったのである。
つまり、矢田判官代義清より延々と相続していた所領があったので、大枝山を越えて篠村・五箇荘へ馬を進めたのであろう。(兵站を確保出来ることが大きい)

https://goo.gl/maps/2W13PkyQ7ET2
https://goo.gl/maps/2W13PkyQ7ET2

山本兵衛尉義経・九郎判官義経・・・私には同一人物のように思えるのであるが、吾妻鏡では「義経」とだけ書き、九郎とは書いていない。

文章がまとまらず、散らし書きになってしまった。お恥ずかし限りである。

篠村の旗揚げについては、以前も少し書いたが、また、少し追加で後日書こうと思う。

 

 

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