室町時代の奈良福智院について

中世史

先日奈良福智院へお参りしてきた。私が研究している中で、福智院文書があることは知っていたが、さっと目を通しただけだったので殆ど記憶にない。幕府の奉行人奉書に何かあったような気がしたので蔵書を調べてみたら、当時は福智堂という名で呼ばれていたらしく、5通見つけることができた。大して役に立つ情報ではないが、紹介しておく。

(1)
【室町幕府奉行人連署奉書 清貞秀 治部国通】 大乗院寺社雑事記 寛正三年五月一日条
福智堂定盛申 和州九条庄事 小林押領云々。子細可被注申之由也。仍執達如件

福智堂定盛申す 和州九条庄の事、小林横領と云々(しかじか)。子細を注し申されるべきの由也。仍(よって)執達如件(くだんのごとし)

寛正三(1462)
    四月廿七日        貞秀 判 (清)
国通 判 (治部)
 大乗院御門跡雑掌

(2)
【室町幕府奉行人連署奉書 清貞秀 治部国通】大乗院寺社雑事記 寛正三年五月二十八日条
当門跡領和州九条庄預職事、却櫟本小林押妨、如元被返付福智堂候(之)訖。宜有存知之由、被仰出候也。仍執達如件。

当門跡領、和州九条庄預職(あづかりしき)の事、櫟本(いちのもと)小林の押妨(おうぼう)を却(しりぞけ)、元の如く福智堂に返付され候訖(おわんぬ)。宜しく存じ有るの由、仰せ出され候也。仍執達如件。

寛正三(1462)
 五月十二日          貞秀 判 (清)
国通 判 (治部)
大乗院御門跡雑掌

(3)
【室町幕府奉行人連署奉書 治部国通】 大乗院寺社雑事記 寛正三年五月二十八日条
大乗院領和州九条庄預職事、為門跡就被申之、却被官櫟本小林押妨、如元被仰付福智堂候訖。早速可其(被)渡下地於之由、可加下知之由、被仰出候也、(以下欠 仍執達如件カ)

大乗院領和州九条庄預職事、門跡之を申されるに就いて、被官櫟本小林の押妨を却、元の如く福智堂に仰せ付けられ候訖。早速その下地(したじ)を渡されるべきの由、下知を加えるべきの由、仰せ出され候也。(以下欠 仍執達如件カ)

寛正三(1462)
     五月十二日          貞秀 判 (清)
国通 判 (治部)
筒井殿(順覚)

(4)
【室町幕府奉行人奉書 清貞秀 治部国通】 大乗院寺社雑事記 寛正三年六月十日条
大乗院領大和国九条庄預職事、却櫟本小林押妨、任由緒之旨、如元被返付福智堂定盛了。自然年貢以下、寄事於左右令難渋者、可有尋沙汰之由、被仰出候也。仍執達如件。

大乗院領和州九条庄預職事、櫟本小林の押妨を却、由緒の旨に任せ、元の如く福智堂定盛に返付され了(おわんぬ)。自然年貢以下、左右に事を寄せ難渋令(せ)しめ者(ば)、尋ね沙汰有るべきの由、仰せ出され候也。仍執達如件。

寛正三(1462)
  五月十二日        国通 判 (治部)
 当所見御沙汰人中

(5)
【室町幕府奉行人連署奉書 清貞秀 治部国通】 大乗院寺社雑事記 寛正三年六月十七日条
大乗院領大和国九条庄預職事、却櫟本小林押妨、任由緒之旨、如元被返付福智堂定盛候訖。在自然之儀者、可被合力定盛之由、被仰出候也。仍執達如件。

大乗院領和州九条庄預職事、櫟本小林の押妨を却、由緒の旨に任せ、元の如く福智堂定盛に返付され訖(おわんぬ)。自然の儀在れば、定盛に合力されるべきの由、仰せ出され候也。仍執達如件。

(寛正三)(1462)
  五月十二日           貞秀 判 (清)
 国通 判 (治部)
成身院(光宣)

この史料を説明する前に、この時代背景を少し説明しておきたいと思う。
寛正3年(1462) という年は、足利義政が室町幕府将軍だった頃であり、室町幕府の指導力が日に日に衰えて行く時代の中にあった。
打ち続く天候不順の為、全国では作物の取入れが少なくなり、必然的に飢饉が発生した。
京都ではこの年の秋に土一揆(つちいっき・どいっき)が発生し、徳政令の発布を求めて、在京大名の被官なども加わって大混乱が出来した。奈良でも木津の馬借が一揆をおこし、興福寺の学侶が出動し、一揆の張本人を処刑するなどの事態が派生した。
その前哨戦の一つがこの大乗院領九条庄の年貢横領だったと思われる。

まず、最初は福智堂定盛から直接幕府奉行所に、九条庄を小林に横領されたので、横領人を退け、元通り返付してほしいと提訴されたので、奉行所は大乗院の雑掌に対し、詳細を注す(報告)よう奉書を出した。(1)
雑掌よりの報告に基づき、元通り福智堂定盛に返付する旨の奉書が出され、存じられるようにと伝えている。(2)
同日で、興福寺最大の衆徒(しゅと)である筒井(順覚)に対し、九条庄の下地を福智堂に返しつけるよう命じ、(3)、九条庄の沙汰人(農民の指導者)に対して、年貢を福智堂に支払うよう命じている。(4)
また、念の為という訳ではないだろうが、興福寺の有力衆徒である成身院(光宣)にも合力するよう命じている。(5)

筒井順覚は大和国筒井の有力国人で、興福寺の代表的な衆徒であり、成身院(光宣)は順覚の次男である。
この後、九条庄に関する奉行人奉書がこれ以後に確認できないことから、櫟本小林の押妨は収まったのではあるまいか。

前掲の通り、この半年ほど後に発生した一揆は興福寺学侶方の出動により、多くの処刑者を出したが、これで一応鎮静化したようである。

この史料は寛正の土一揆の前哨戦とでもいえる。

〇 清 貞秀は和泉守清原真人 〇 治部 国通は河内守(姓は確認出来ず)

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