彼岸会法要 南無阿弥陀仏

家系の遡及

今日は菩提寺にて春の彼岸会法要が行われた。私は必ず参拝し、卒塔婆供養をして頂いている。今日は少し離れた処のお寺から、副住職が法話にこられた。
30を少し過ぎた方であったが、話が上手く、お年寄りたちをうまく引き付けて、約1時間の法話をされた。
私はいつも思うのであるが、どこの和尚であれ、こういう法話はとても上手に話される。
所謂一人話をされるわけだが、最後にはちゃんと仏様・遠祖への感謝へ持って行き、南無阿弥陀仏と合掌でオチが付く。

江戸・大阪で落語を職業とされている方々、多くの方が毎日研鑽を積まれているが、お寺で落語会をされていることが多い。
和尚の法話と落語が相通じるところがあるからであろう。

近年でも、地域に根付いた寺院は檀家衆と共に存在し、檀家衆は寺院が存続してくれないことには自分たちの葬儀や遠祖の菩提を弔って貰うことが出来ないので、時には纏まった金額の寄付をして本堂や庫裏の修理をし、遠祖の供養をお願いしながら、お布施・供養料・墓地の管理料などとして少額ではあるが、定期的にお寺の収入になるよう心掛けている。

私の遠祖は柳澤吉里の郡山入部とともに此方に住むようになったが、実はそれ以前にも藤井松平氏が藩主であった時に、延保7年(1679)より貞享2年(1685)の6年間、こちらに住まいしていたことがあった。
其の後色々あって、柳澤家に入り、享保9年(1724)吉里の郡山転封により、39年振りに郡山へ戻ってきた。

それ以来現在の菩提寺にお世話になっているので、約30名ほどここで眠っておられる。

墓所には同じような家が沢山あり、同じように多くの墓石がある。
代々続いている家は今でも春秋の彼岸、夏の施餓鬼会に出席されているので、年3回ではあるが顔なじみの方も多い。

家老をされていた方、年寄だった方、町奉行だった方、勘定奉行だった方など、早々たる面々が揃う。
私の家も代々奉行職を歴任してきたので、皆さんとお話ししていても別段なんとも思わないが、考えてみれば藩の執政職であった者達が集まっているのである。

廃藩置県により首を切られ、各地へ移住した人が多いが、何とか郡山、大阪、京都など、近隣で生き続けた者の子孫が、菩提寺という媒介を通じて、年に何回か顔を合わせている。
今日も江戸期に兄弟であった方のご子孫(つまり同姓の一族)のご当主と親しく話をしてきた。
私の菩提寺はいつも彼岸の入りに法要をされるので、中日にはお花が痛んでしまうことから、いつも法要の時はお花を供えず、中日に備えるようにしている。
特に夏は痛むのが早い。これだけ多くの墓石を受け継いでいると、全部にお花を供えれば少し纏まった金額になるので、最近は遠祖代々として建立した両親の墓石に大方の仏花をお供えすることで、勘弁してもらっている。

次の世代になっても受け継いでくれるだろうし、私は安心している。南無阿弥陀仏。合掌。

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