多武峰を支えた人々/郡山藩

2020年3月8日

大和明日香の古代遺跡を巡る観光者は大勢おられる。又、秋の紅葉の季節には談山神社へ多くの観光客が訪れる。
大化の改新の謀議を行ったとされる現在の談山神社。ここは藤原鎌足を祀るまさに古刹である。豊臣時代、秀吉はこの多武峰より大和郡山の豊臣秀長の元へ遷宮させようと試み、実際に多くの神官・僧侶たちが郡山へ移り住んだ。現在大和郡山には大職冠という地名が残り、大職冠神社が残っている。ここが多武峰より遷した大職冠(藤原鎌足の別称)の後である。
郡山へ移転の後、豊臣秀長の病死がこの無理難題をつけた移転が災いしたのだと言われ、神罰を恐れた秀吉は全てを多武峰へ返した。その名残が今の神社と地名である。
郡山には植槻神社がある。この付近(郡山城の北部)一帯は藤原鎌足の子不比等の屋敷があったとされる場所なので、秀吉の難題も、ある意味では全くの無茶苦茶という訳ではなかったと思う。しかし、良くこのことを判ったな、全くの偶然なら、不比等が呼んだとも言えるのだが、これは又、違う方に話が飛びそうなのでここらで止めておく。

長い歴史を持つ多武峰であるから、そこに奉仕し、暮らした人々の墓所がある。ご近所の方に聞かないとまず判らないが、神社を峰まで登り切り、道なりに山沿いに歩いてゆくと多武峰を支えた人々の墓石が整然と並べられている場所にでる。

ネットに公開すること、思わぬ悪さをする方が偶におられるので詳しいことは書かないが、鬱蒼とした森の中に整然と並ぶ墓石は、悠久の歴史を物語っている。

私の祖母がここの坊官の家出身なので、時々大和高田までへ行くことから、ついで参りで申し訳ないのだが、足を延ばし(車ですよ)お参りに行く。
もう祖母の実家とは交流もないのだが、子供の頃に墓参に連れてこられて以来、常に心のどこかにはこの墓所の事が残っている。もう55年も前の事だが記憶はしっかり残ってる。

明治の神仏混合廃止、廃仏毀釈の波を真面に受け現在は談山神社と呼ばれているが、江戸期までは多武峰(とうのみね)という神仏混合の宗教が支配した地域であり、何度も兵火にあってはいるが、その自治は廃藩置県・神仏分離・土地の上地令まで続いたのである。

明治の激動を真面に受けたのは、ここの神官・坊官も同じで、政府に受け入れられたのはごく一部の人だけで、多くの人々が職を失い、屋敷を追われ、この地域から去っていた。

祖母の実家後も現在は農地になっており、栄光の欠片すら残っていない。
明治維新によって社会は激動の時代に入るが、それにより壊され、追われ、職を失い路頭に迷った人々が如何に多かったのか、世間は弱者に目を向けることはしない。

いま私のブログには旧郡山藩の士族末裔からの問合せを出来るようにしてある。長年歴史史料を探してきたおかげで、明治の廃藩置県後の史料も多く手元に収集することが出来たことから、問合せに応じることした。
石の上にも3年、苦節10年などと云うが、私の場合は苦節40年にして漸く全体像が朧気ながら見えてきたように感じる。