室町期の幕府行事などなど・・

2020年3月8日

‘栄華を極めた足利義満は出家して道義と名乗り、藤原公経(西園寺公経)が山荘(「北山第」)を営んでいたものを強制的に譲らせたあとに建築した北山殿に隠棲するかと思われたが、まだ権力を離すことはせず、朝廷に習って院政を引いた。

【幕府北山殿御前沙汰始】 二月十七日、丙子、雨降時々止、(中略) 今日於北山殿被始行御前沙汰、准后 太政大臣 御出座。参仕人々管領右衛門佐入道徳元(畠山基国)、土岐美濃入道常保、問注所形部少輔長康、波多野肥後入道元喜(通郷)、飯尾美濃入道常康等著座。此外、飯尾肥前入道常健、同大和入道□□(浄称)、斉藤上野入道玄輔、治部四郎左衛門尉則栄、中澤次郎左衛門尉氏綱等参仕之。於土岐者初参也。評定者去正月参仕了。御前沙汰被召加之、規模也云々。常康 - 座次常健之次也 - 同今日被召加之云々。

吉田家日次記 大日本史料 応永八年(1401)二月十七日条
御前沙汰については桑山浩然氏の研究がある。
准后というのは義満の正室の日野業子、太政大臣というのが義満の事。

評定は正月に新将軍義持の元で済んでいるのに、儀礼的に北山殿まで評定衆を呼びつけて、同じことをさせたようである。

抑々義満は応永元(1394)年12月17日に将軍職を嫡子の義持に譲り、以来幕府の評定は新将軍義持のもとで行われてきており、何故この時期に義満が北山殿へ呼びつけたのか理由がわからない。将軍職を譲ってから丸6年を経過しており、すでに新将軍の元で政治は問題なく動いていた。

応永7(1400)12月19日【評定着座次第】
奉行衆不参列
同十二月十九日。御判始評定。
御座 管領徳本(畠山)
門注所信濃守    波多野肥後入道
飯尾肥前入道    飯尾美濃入道
御硯      門注所。
奏事      中津(澤)次郎左衛門尉
孔子      松田九郎左衛門尉

○ 中澤を中津と記すは、江戸期にこれを転写した塙保己一以下の右筆の誤り。

御評定着座次第 群書類従 511 雑部六十六

応永8(1401)1月11日【御評定着座次第】

同八年正月十一日。
御座。御方御所
管領右金吾徳元(畠山)   上杉民部大輔房方。新加
土岐美濃入道常保  波多野肥後入道元喜
飯尾肥前入道常健  飯尾美濃入道常康
御硯    門注所
奏事    中津(澤)次郎左衛門尉
孔子    (書かず)

○ 中澤を中津と記すは、江戸期にこれを転写した塙保一以下の右筆の誤り。

御評定着座次第 群書類従 511 雑部六十六

政務を司るのは将軍と管領(元は執事と言っていた)、評定衆と幕府奉行人の中で著名なものが選ばれている。

これら将軍の前に出ることが出来る者たちは「御前沙汰衆」と呼ばれ、幕府の中でも政治的権力は絶大なものがあった。

当時は大名と雖も文盲の者が多く、有職故実を熟知した鎌倉時代より続く官僚は将軍に奉公するだけでなく、細川や畠山、山名などの有力守護の中へ一族を派し、又、公家の雑掌や寺社の奉行人などにも一族を派し、その政治的権力は室町期後期になり、政治が不安定になるとなると益々強力なものとなり、各地で守護が一族の権力争いに明けくれる中で、確実に基礎を固めていった。

遡る事9年、義満は足利幕府室町殿の東側に広大な相国寺を建立し、明徳3年開眼供養が行われた。その次第が相国寺供養記として残っており、参列した武将たちの晴れやかな姿を見ることが出来る。

この供養の式次第を奉行したのは飯尾美濃守貞之(三善氏)と中澤次郎左衛門尉氏綱(源氏)であった。

明徳3年(1392)8月28日 【相国寺供養記 式部大輔秀長卿】

明徳三歳次壬申八月廿八日丁丑、天顔快晴、秋気清爽、今日萬年山相国承天禅寺供養也、兼被尋日次於刑部卿安倍有世卿、吉曜之由擇申之、去廿五日、先被成准御斎会、宣上卿左大将、職事蔵人左少弁藤原宣俊也、奉行家司右兵衛権佐重房 – 萬里小路大納言息也 -。参仕公卿等、奉令旨、悉相触之殿上人者前左京権大夫惟宗、行冬朝臣為御布施取催之依為本所職事也。隋兵帯刀衛府者、飯尾美濃守貞之、中澤次郎左衛門尉氏綱、両人相催之。

(以下、供養に列参した大名が煌びやかに装っているのを詳細に記述している)

○全て儀式が終ったあとに、

奉行飯尾美濃守、中澤次郎左衛門尉調之、渡下家司為景 – 納長櫃舁立西壇下 – 公卿自下廊次第起座。上首少々猶在之。

(以下略)

相国寺供養記 群書類従434

これらの大行事を朝廷・公家衆・僧侶達と詳細な打ち合わせを行うことが出来るのは、鎌倉時代より連綿と続いた幕府の高級官僚でなければとても務まらなかったのであろう。

その出自においても公家衆・高官の僧侶達と直で話をすることが出来る者でなければならなかった。

三管領(斯波・畠山・細川)四職(赤松、一色、京極(佐々木)、山名)と雖も、斯波は足利に次ぐ家柄であるが、畠山・細川・一色・山名は足利の家来であり、公家から見れば陪臣にあたる。赤松は播磨の土豪であった。辛うじて近江の佐々木が足利に並ぶ家柄である。山名が文盲であったことは良く知られている。